竹生 泰之の“真“アメリカ漫遊記(1999年 Dig-it Zine掲載)

Ares Bikesの基礎を築いた宇野陽介と、初めてアメリカを転戦した時の話です。

1 のっけから。

 暮れ行く夕日を見送りながら僕は、茫然と立ち尽くしていた。
 BSコンテスト第3戦、オーシャンサイドB3コンテストに出場すべく、再びアメリカに乗り込んだ僕は、滞在費を浮かすために、ユースホステルを、オーシャンサイドの北に位置する小さな町、サンクレメンテに見つけた。
 ところが2つの町は70マイル近くも離れていた。しかも、ここサンクレメンテまで辿り着くのに、すでにシャトルバスに$90も払っていた。ホステルのフロントに聞くと、バス、電車いずれの方法でも、オーシャンサイドまで2、3時間はかかるという。大会まで数日の余裕を取ってはいたものの、情報が少なく、いつレジストレーション(大会申し込み)が始まるかもはっきりせず、不安はつのる一方だった。
 「ま、明日考えりゃいーじゃん。」
 のんきな声で相棒がいった。「オメーが金がねーっていってたから、オメーのフトコロの心配までしなきゃなんねーんだ!」と喉まで出掛かったのを堪えながら、あの日のことを思い出していた。
 その相棒、宇野”YORK”陽介とは、今年(1999)のKOG初戦で意気投合した。陽介のことはだいぶ前から知っていたけど、その大会ではじめて話という話ができて、僕のほうから「アメリカの大会、一緒に回らない?」と、今回の旅の話を持ちかけたのだった。
 陽介は、僕のつたない英語を当てにしていたみたいだが、僕といえば、この1年、いろいろ思うところがあって相棒を探していて、偶然、2人の道が重なったのだった。
 陽介は本当に楽天的、かつ懐が広い。普通ならカチンときてしまうことも、なんかそういわれてみると、と納得させられてしまう雰囲気を作ってしまう、トクな性格の持ち主でもある。それで、うまくやって行けそうな予感がした。
 幸運にも、この出会いは、お互いの能力を2倍にも3倍にも増幅して、予想もつかなかった素晴らしい結果を生み出す原動力になった。これはストームに書かなかった(書けなかった?)真実の物語だ。
 話に戻る。初日の悲劇はまだ終わらなかった。とりあえず腹を満たそう、と、僕らは近くのグロッシュリーストアー(酒屋がコンビニをやっているような店。)に向かった。僕はストレスで、スニッカーズとジュースしか口にできなかったが、神経の太い(無神経)陽介は、「あー腹減った」といいつつ、バンズ(ハンバーガー用のパン。)を1袋買い込み、ホステルに戻って食べはじめた。数分後、陽介の動きがフッと止まった。
「このパン、白くねー?」
 よくよく見ると、パンの底に、白いカビらしきものが...
 次の日、さすがの無神経も下痢に悩まされたらしい。下痢どころじゃない、オーシャンサイドに行く方法に悩まされていた僕だが、結局タクシーで行くことに決めた。案ずるより生むが易し。なんてことはない、現地で、安くて日本語の通じるモーテルを発見できた。

2 オーシャンサイド裏話あれこれ

 荷物をバラす暇もなく大会会場を偵察に行ってみると、ストリートコースもバーティカルも組み立て中。ビーチ沿いの駐車場にテントがぽつん、と置いてあるだけ、だーれもいないフラットランド会場で、陽介が乗るのを、駐車場の片隅で僕はずーっと眺めていた。
 日本を発つ数週間前、練習の最中に、メガスピンをしていて突然腰に鋭い痛みが走り、10分くらいうずくまってしまった。病院で、腰の捻挫といわれ、起き上がるだけでも激痛が走る日々。ここにきてまだ、痛みを引きずっていたのだ。
 運の悪さはまだ終わっていなかった。
 会場から帰って、モーテルに帰って休んでいると、突然誰かがドアをノックした。いぶかしがりながらドアを少し開けると、見知らぬ黒人が!いきなりズカズカ部屋に入ってきて、なんかまくし立てる。陽介は硬直。僕はなんかあったら、と武器になるものを目で探しつつ、ソイツのいっていることを聞き取ると、なんか、この部屋のカギを拾ったから、返す代わりに$10よこせといっている。後でなんかされるのも嫌だったので、おとなしく$10を渡すと、カギを返して、プイッと出て行ってしまった。時間にして5分ほどの出来事だったが、1時間くらいに感じた。この旅で一番凍りついた瞬間だった。
 それから数日は無事に過ぎ、7月29日、いよいよレジストレーションの日がやってきた。その中に高志と原君、野田君の姿が。オーシャンサイドの南に位置するサンディエゴに語学留学している、ヒカルっち(稲生 光)の姿もあった。陽介と僕を合わせて、総勢6名の日本人ライダーがオーシャンサイドに集結した。
 レジストレーションが終わって、フラットランド会場でみんなでたむろってると、有名所のプロも続々姿をみせ、ポツポツ乗り始めた。
 その中でも、みんなの目はアンドリューに釘付け。Cab540。180°して後ろ向きに走ってきて、180°しつつテイルウイップという、聞いただけではストリートの技としか思えないこのトリックは、今年のフラットランドシーンで、最もエキサイティングなトリックと言える。全員の視線が集まる中、やはりそうそうは決まらない。そして何回かのトライの後、ついに炸裂!「Yeah!!!」と思わずみんな大喚声!
 夕方行なわれた、アマチュアのフラットランドでは、みんなも知っているとおり、陽介がアマ、プロ通じて日本人初のBSコンテストでの優勝!夕暮れのビーチをバックに、陽介はトロフィーを高々と挙げた。しかし陽介にとっては、プロ出場権を手に入れるための、1つの通過点でしかなかった。
 7月31日。日を改めて行なわれたプロ フラットランド予選。ゲイブ ウイードと、プロデビューとなった陽介がタイブレーク、アマ優勝に引き続き、プロにおける日本人初予選突破か、と期待が高まったが、0.2ポイント差、5人のジャッジのうち、誰か一人、1点だけ、2人に差をつけただけという僅差で敗れた。高志は、鎖骨骨折が癒えていなかったのと、練習ができなかったダブルパンチで決勝には絡めず、次のポートランドでの雪辱を誓っていた。
 プロ予選の前に、ちょっとした事件があった。大会フォーマット確認のため、プロのみのミーティングがあった。アマ優勝者がプロにあがれるというルールにのっとって、陽介もプロに上がっていたのに、前日アマで一緒に競ったやつが、陽介に向かって、
「お前プロじゃ無いだろ!」とイチャモンをつけて、陽介はマジギレ。
 「なんだテメー、アマの癖になんだって俺に文句言えんだ、このヤロー!」とミーティングの間じゅうキレていた。陽介さん、小物ほどよく吠えるの。ほっときゃいーの。
 8月1日、プロフラットランド決勝。プロライダーが、善戦した陽介に話しかけてくる。まだ、あまり英語がわからなかった陽介の間に僕が入って、あーだこーだやっている中、カナダのジェイソン ブラウンがすごく僕らに興味を持ってくれて、ポートランドの前に遊びに来いよ、といってくれた。
 去年ジェイソンと大会では会っていたけど、そのときは全然喋れなくて、それを覚えていたジェイソンは、「随分喋れるようになったじゃん」といってくれた。小さくガッツポーズ。
 イギリス人ライダー、イファレム キャトロウともしゃべった。典型的なイングランド気質、というか、しゃべり方が頑固おやじっぽくて、最初、「なんだこいつ、全然愛想がねー。」と思っていたけど、話してみると、過激発言する、なんか怒らせたら怖いタイプ。自分でKing of Concreteっていうスケートパークを経営していて、そこでの大会(大会もKing of concreteっていう。)にチェイスが来るから、楽しみだ、とか、KHEのフレームは全部歪んでいて、パーツやフレームをよこせ、っていっているのに全然送って来ない、(KHEの)トーマスは気が狂ってる、だからやめた、ハローに乗ってるけどイギリスのディストリビューターからフレームやパーツをもらってるだけで、サラリーはとってない、etc。いいたい放題。
 オイラのお気に入りライダー、ショーン ピータースは、ライディングの派手さのそれとは全然違う、プロライダー、というより出世で取り残された会社員の印象を受けた。昔はワールドにも行ったりしたけど、今はアンドリューが勝てるライダーだから、自分はワールドに送ってくれない、みたいな話しから、厳しいプロの現実を見てしまった。
 決勝前の練習中にも、またまた事件があった。アンドリューが、ネイサンに向かって、「オメーのライディングなんてクソだ。」みたいなことをいった。で、殴り合い寸前になったけど、ネイサンも口で返して事無きを得た。アンドリューは、大会に勝たなきゃ、勝つのがすべて、と強迫観念に囚われているようで、少し哀れだった。
 でも言い方変えれば、蛇の道は蛇。ケンカを売った相手を見極める目はさすが、ということか、決勝はブッチギリ、スーパーネイサンが優勝をかっさらって行った。
 暗くなってモーテルに帰ると、ばったりチャドに会った。偶然、僕らはハローチームと同じモーテルに泊まっていたのだ。モーテルの名前が”ミラ・マー”モーテルという名前だったから、デイブ ミラあたりがゴロで選んだのかもしれない。
 チャドは陽介に気づくと、「次もプロで出るんだよな?」とたずね、それを聞いた陽介はおおはしゃぎしてた。どーでもいいけど、車のトランク半開きでチャリンコ突っ込んで、タイヤから煙り吹かせながら走り去るのがチャドらしかった。
 僕らもその日のうちにモーテルを出た。つぎにニューヨークで行なわれる、2HIPコンテストまでは少し時間があるので、しばらくサンディエゴのダウンタウンにある、ユースホステルに泊まることにした。
 そこはベッドが120もある大きなホステルで、夏真っ盛りということもあり、たくさんのバックパッカーたちと親交を深めることができた。そういう経験がはじめてだったらしい陽介は、みんなと連れ立って、夜、バーに行ったりして楽しんでいた。僕はここで悪化した腰のため、ベッドに横になりつつ考え事をしていることが多かった。
 思い思いに過ごしたサンディエゴでの4日間の休息。決意も新たに、ニューヨークへ旅立つ日はきた。

3 2度あることは何度でも? 初めての挫折。

 やってきましたニューヨーク。やっちまった大誤算。再び。
 JFK国際空港からシャトルバスに乗り込む際にたずねると、大会会場のグリーンポートまで、2時間以上、200マイル近くもあることが判明。クレジットカードを持っていない僕らには、選択の余地はなし。再び1人あたま$90近く、ということを運ちゃんにダメおしされると、車のシートにヘタりこんだ。
 捨てる神あれば拾う神あり。シャトルの運ちゃん、ジョーは、自分でもレコードを回す大のヒップホップ好き。車でガンガンにヒップホップをかけていて、これまたヒップホップ好きの陽介さんが日本のヒップホップを聞かせると、おおいに意気投合。ヒップホップ談議に夢中になっているうち、あたりは街灯もない一本道。あるのはヒップホップが刻むビート、車のライトだけ。
 しばらくして、インターネットで調べておいたモーテルに着いた。建物に向かって歩きだす僕らを見るなり、フロントのオヤジは首を振った。満室?!まだ木曜日なのに?
 理由を聞くと、このグリーンポートというとこは、観光地、それもとびっきり金持ちが、夏休みをのんびり2、3週間過ごすような土地だった。その日は8月6日。いうまでもなくバケーションの真っ只中。手当たり次第、辺りのモーテルを回ってたずねてみるが、空きはない。夕方4時に空港を出て、途中、渋滞もあったことから時計はすでに10時を回っている。
 休憩に止まったセブンイレブンで、陽介と野宿しちゃいますか、と話していると、ジョーが、「そりゃいけねぇ。」と町外れまで車を走らせてくれた。間もなく、ダウンタウンから車で15分くらい離れたところに、ポツン、とあるモーテルを見つけた。
 ダメもとでたずねると、「今日だけなら泊まれる」という。もう11時を回っており、泊まります、幾らですか?と値段を聞いてビックリ。朝飯もつかず、一番安い部屋で、1泊$90!僕らは4日グリーンポートに滞在する予定だったから、4日で最低$360。ホステルなら3週間は泊まれる値段だ。
 えーいままよ、と1泊することに決め、慌ただしく荷物を部屋に突っ込んだ。
 明かりが1つしかない薄暗い部屋で、セブンイレブンで買った冷えたハンバーガーにかぶりつきつつ、「いったいどーなっちゃうんだろう。のっけからこんなんで。」とうそぶいた。2人ですする粉末みそ汁の音が、寂しく部屋に響いた。
 8月7日。大会の申し込みよりも、泊まるところの確保が最優先。朝、フロントにたずねてみると、その日は空きがないが、次の日からは最終日までは空きがあるという。
 ちょっと心配してくれたのか、フロントのおばちゃん、オーナーのコスタスさんが、「今日はどこに泊まるの?」と僕らに聞いた。「はぁ、野宿ですね。たぶん。」と答えると、「それはだめよ、私がどこか当たってあげるから。」と僕らの荷物を車に積み込んで、他のモーテルに当たってくれた。
 ところがそこは$150もする!「あ、もういいです。やっぱり野宿します。」と僕らが断ると、「いいから、だまってついてきて。」というので、渋りながらもついて行った。 10分後、僕らはベッドに寝転んでいた。
 コスタスさんは、日本からきた学生で、お金があまりないのだけど...とウソをついてくれて、1泊$150のところを$80にまで引き下げてくれた。まだ高いけど、そこまでしてくれたコスタスさんに感謝して、そこに宿を取った。
「You would be pretty good actress,wouldn’t you?」(いい女優になれんじゃない?)
 僕がおどけて聞くと、コスタスさんは苦笑いとも、まんざらでもないとも取れる笑みを浮かべていた。
 やっと足場を固めて、大会会場のチェックへ向かった。森が開けた広場に、こぢんまりとしたスケートパークが見える。今度の舞台、グリーンポートスケートパークだ。
 パーク受付のニーチャンいわく、できて半年も経たない、新しいスケートパークで、バートランプ、ミニランプ、ストリートコースと全部鉄板で覆われた、公営のスケートパークにしては作りのしっかりしたものだった。
 中ではジャンプランプがおが屑にまみれて組み立て中。フラットは、バートとジャンプランプで挟まれた、バブルで売れ残った虫食いの土地みたいなところでやるらしい。
 アスファルトがうねるほどの暑さの中、陽介はライディングをはじめた。このところのバタバタで、練習時間が取れなかった陽介は、カンを取り戻すのに苦しんでいたが、ともかく量は練習できた陽介は満足そうで、その日は久々にトラブルにも悩まされることなく床に就けた。
 8月8日。11時からレジストレーション開始で、10時くらいに訪れてみると、もうストリートライダーたちがバンバン練習をしていた。フラットの会場がジャンプランプの着地点にあたり、何度もジャンプランプを飛んでくるライダーとぶつかりそうになる。
 有名所のプロは、マイク(マイケル スタイングラバー)とブライアン(ブライアン ターニー)がきていたが、中でもマイクは、相当カリカリ来ていた。
 そんなライダーたちを尻目に、僕は、バーモントからきたという、まだ14歳のネクストジェネレーション、フラットライダーのゲイブと仲よくなったり、チェイス ゴーインが自分のシグネチャーバイクをだしたが、そこで働くんだ、というやつと話したりして、結構楽しめた。
 こんなド田舎にもかかわらず、デイブ ミラや、ケビン ロビンソンなどの大物もきていて、ローカルの大会とはいえ、緊張感とリラックスが同居していて雰囲気はいい。でも大会設営はギモンだが。
 その日のうちにアマチュア フラット、ストリートの予選が行なわれて、プロの競技はすべて次の日、ということでその日は夕方に解散した。
 8月9日。雨が激しく地面を叩く音で目が覚めた。どしゃぶり。大会中止。陽介は放心状態。昼間大会に出て、夜のうちに空港に行って野宿しよう、と思っていたので、そっちの計画の練り直しをしなきゃ、と妙にピンチに慣れた僕はフロントへと急いだ。
 前日のうちにその予定をコスタスさんに話してあったので、顔を見合わせるなりコスタスさんと僕は深いため息をついた。コスタスさんは顔を見上げると、「今日の宿はなんとかしてあげるから、気分転換にダウンタウンに連れてってあげる。」と申し出てくれて、その言葉に甘えて、僕らはダウンタウンに繰り出した。
 ダウンタウンは昔懐かしい、というか、小さな港町というのはかくある、といった風情で、僕らはウインドウショッピングをしたり、写真を撮って歩いた。僕は町中にあった自転車屋で、PRIMOのTシャツを、他の土産物屋で絵葉書を買った。陽介は気もそぞろで、「やっぱ中止かな、どうしてもやんないかな。」と迎えにきてくれたコスタスさんの車の中でもずーっとそればかりいっていた。
 モーテルに戻って開口一番、「今夜は泊まれますか」とコスタスさんに切り出してみた。「ないけど、1つなんとか部屋を作ってあげるから、そこに泊まりなさい、代金はいいから。」
 ド田舎といえど、冷たいイメージがあるニューヨークで、こんなに人の暖かみに触れられるとは思ってもいなかった。このときほど「英語で喜びを表現できないのが、なんてまどろっこしいんだ」と思ったことはなかった。僕らは無意識にそれを体で表わそうとしていたのか、コスタスさんに何度もお礼をいって、幾度となく振り返りながら部屋に戻った。
 ニューヨークを、朝6時に発つ飛行機に乗らなければならなかった僕らは、1晩は泊まれず、夜9時、コスタスさんの見送りに、顔一杯の笑顔で答えてシャトルで一路、JFK国際空港へ。デルタ航空の受付カウンター前の、待ち合い所へ行くと、僕は隅においてあった機内用のブランケットで寝床を作り、陽介は、緊急野営用のアルミ箔ブランケットにくるまって、眠りに着いた。

4 出会い

 硬い床と寒さで、十分な睡眠が取れないまま、飛行機に乗り込んだ僕ら。おかげで機内では泥のように眠れて、6時間のフライトも、気がついたらポートランド。
 大会まで3週間もあり、陽介も金がヤバくなってきて、ジェイソンの家で金を浮かそうと電話すると、ポートランドに迎えに行くのは遠すぎる、というので、もうちょい手前の、陽介の知り合いで、シアトルに本拠を構える、Dia-Techの小杉さんのところにお世話になることにして、僭越ながらポートランドまで迎えにきてもらうことにした。
 ポートランドからシアトルまでは車で3時間半。迎えにきてもらった、Dia-Techで働いているキーコさんに代わって、シアトルへの帰り道は僕が運転した。
 小杉さんの家に着くと、僕と陽介は、地階の1部屋全部を使わせてもらい、ビュッフェ(バイキング)で何日ぶりかにマトモな食事にありついた。
 そこでは、昼はDia-Techで手伝いをさせてもらって、夜は小杉さんと、奥さんのジョニーさんと4人で近くをドライブしたり、僕はインターネットで日本の友達や、この旅で知り合ったやつらとメール交換をして過ごした。
 今回、一番お世話になったと言える小杉さんは、根っからの大阪人。どこまで冗談で、どこまでマジなのか、分からないのが怖い。陽介はズバズバ突っ込んでいたけど。
 ジョニーさんは包容力のある人で、僕らを家族の一員のように扱ってくれた。
 すごく居心地のいいところではあったけれど、カナダのフラットランドシーンを見られる機会なんてそうそうあるものでもない。僕らは前進すべく、8月13日、ジェイソンに連絡を取って、彼にシアトルまで車で迎えにきてもらった。
 深夜、小雨が降りしきる中、ジェイソンはサーキットを走るように車を飛ばす。Gと戯れること1時間弱。国境もスムースに通過し、車は、小高い丘のてっぺんにあるタウンハウスの前に止まった。荷物をガレージに突っ込んで、部屋に案内されるや否や、それまでの疲れがドッと出て、僕らはベットに倒れ込んだ。
 バンクーバの東、ダウンタウンから車で20分くらいの小都市、ポートコクィットラム。「トムソーヤの冒険」を読んで、想像していたような風景が見渡せる、そんな素晴らしい場所にジェイソンは、彼女と両親の4人、3匹の犬と住んでいる。
 彼女のタラは、すごく気の強い、でも知性を漂わせるコケティシュな美人。ソフィーは、社会保険局に務めている、お役所関係というだけあって、見た目、すごく堅そう。実際はユーモアのセンスあふれる、ぶっちゃけた人で、見た目と全然違うのだが、最初はちょっと近寄り難かった。
 お父さん(確かジョン。)は会社を経営していたけど、50代で引退して、悠々自適の生活をしている。若いころはドラッグレーサーだったらしい。その血がジェイソンにもタップリ流れていて、自転車を引退したら、次は車のレースだ!といっていた。
 8月14日。遅い朝食を取った僕らは、昼、ジェイソンの普段練習している、”Canadian”ビデオで有名なショッピングモールの駐車場に行った。そこでコーリー(ストラティチャック)に会った。陽介が一番のお気に入りという、スタイルのある、スローで、コンスタントなトリックの持ち主だ。
 練習が始まると、3人とも、100メーター四方くらいある駐車場を目一杯使い、そして1つ1つのコンボが長い。ジェイソン、コーリーは平気で2分くらいのコンボをバシバシやっていて、陽介も負けじとキメまくる。
 ジェイソンとコーリー、陽介のライディングに見とれているうちにすっかり日も暮れて、さあ帰るか、というときになって、ジェイソンが「コンテストをやろう」といいはじめた。それは陽介の十八番、ヒッチハイカーウイップを何回できるか、というもので、ジェイソンも、コーリーもこのコンボができるのだが、よく考えるとそんな遊びができてしまう程、ハイレベルな練習が目の前で繰り広げられていたのだ。
 コーリーが、ジェイソンが、陽介が、順に挑戦して行く。ジェイソンは、バックワーズならいくらでもできるといっていたが、フォワードは結構苦しんでいた。コーリーと陽介は熾烈な争いを繰り広げ、陽介とコーリーが10回をメイクしたところでコンテストは終了。僕らがいる間、帰る前にちょっとしたコンテストをやるのが恒例になって、僕はジャッジとして、観客として、この小さな、でも贅沢なコンテストを楽しんだ。
 練習から帰ると、ジェイソンの家でフラットランドの歴史勉強会を兼ねてビデオ鑑賞会。10年以上昔に、伝説上のライダーたちがヒッチハイカーウイップを初めとする数々の、新しいと思っていたトリックを次々に決めていくのを目の当たりにして、ジェイソンがいっていた、「今ではオリジナルという言葉はあまり意味を持たない。高い技術がいいライダーの必要条件だ。」ということが実感できた。
 夜9時、10時になって、タラが働いているレストランが閉店まじかになると、レストランに繰り出すのがほとんど日課だった。タラにタダでシェイクを作ってもらって、シェイクをすすりつつ、フラット談義や、陽介とジェイソンの間に立って、ビジネスの話を通訳したりするのだった。
 他にはキャピラノブリッジというつり橋に観光に行ったり、夜はストリップクラブ(!)にステフォン(ロイヤー)と4人で行ったりした。日本では触れるところもあるよ、と陽介がいうと、最初、ジェイソンは「むゎじでーえぇ!?!?ぜってー日本に行ったときにイクゼ!」と、やっけに意気込んでいたが、フッ、とマジになって、「タラに知られたら、I would get Snip Dick(ちんちん切られちゃう)からだまってて。」と、情けなくウチらに口止めするのだった。
 2、3日経って、カナダの生活にも慣れてきたころ、ジェイソンが陽介にビデオを撮りたい、と申し出た。陽介はもちろんOK。普通の駐車場ではつまらないからと、いろんなところをまわって撮影したのだが、陽介は笑っちゃうくらい堅くなっていて、「大会なんかより、全然緊張する。」といっていた言葉のとおり、普段なら寝ててもキメるコンボを、決めるのに20回位トライしていた。
 途中、撮影のために立ち寄ったテニスコートで、テニスコートの周りをグルグル走っていたオヤジが、「俺が走ってるところをビデオにとってくれ。」と訳の分からないことをジェイソンに向かって言いだした。ジェイソンは「アホかお前。」とあしらったが、陽介を撮影している間中ずーっと、ブツブツいいながらグルグル回ってた。今度のジェイソンのビデオで、陽介のシーンに映っているかも。わけわかんない。
 次の日もつづいて撮影をしたのだが、2日目で慣れて来たということもあってか、伝家の宝刀、ワンハンドヒッチハイカーウイップをキメることができた。
 しかし滞在5日あたりを過ぎると、さすがに見ているだけでは飽きてくる。ジェイソンたちは普段、ショッピングモールの西側で乗っているのだが、ステフォンとか、アンドリュー(フェアリス)とかは東側で乗っているらしいので、散歩がてら東側に歩いて行くと、ステフォン(ロイヤー)が1人で練習しているを見つけた。
 彼は、1年かけて1つのコンボを完成させる、という修行みたいな練習をする。いつも1人で練習していて、ひたすら同じコンボを繰り返し、決まるとスゴイのだが、ほとんど決まらない。大会には向かないライディングスタイルだが、それはそれで1つのスタイルなのかもしれない。ハードな練習のせいで、手首はボロボロ。怪我除けのために、練習中は必ず小さな仏像を3つ、置いていた。
 1回家に行ったことがあって、スティーブ フォングともう1人の3人でシェアしているらしい。彼の部屋に入ると、赤の裸電球が1つで、スパイダーマンのポスターが壁に怪しく浮かび上がり、所狭しとスパイダーマングッズ。はっきりいってアヤシイ。人はいいんだけどね。ジェイソンも少し分からないトコがある、といっていた。
 他には、Canadianビデオにはよく登場するが、大会ではお目にかからないPussy Whipped(女のケツを追いかけてばかりのヤツをこう呼ぶ。)のスティーブ フォングに会った。
 BMX歴6年、21歳の彼は少しチャラチャラしてて、気分屋。チャリンコやめる、といってみたり、人がライディングを見てると、これすごい?と聞いてきてみたり。ガキっぽかった。
 あまり練習に来なかったけど、夜は雑貨屋で働き、昼はジェイ ミロンのチャリンコ屋(up and north)を手伝っている、インテリ(大学の経営学部を出てる。)のジェイミー マッキントッシュもポートコックィットラムローカルの1人。10年以上もジェイソンと共に、カナダのフラットランドシーンを引っ張ってきた大御所だ。ネイサンも、ジェイソンも、彼が1番すごいといっていた。ライディングは速い、の一言。原君の速さは、キビキビ、と表現できるのに対して、ジェイミーの速さはスパスパ、パキパキ。動きが軽い。彼もありとあらゆることができ、ジェイソン同様、陽介の言葉を借りれば「NEXTレベル」のすごさだった。
 最後に次世代のライダー、トラビス コーリア。乗りはじめて1年も経たないというのに、バックワーズヒッチハイカーウイップを軽々キメる、恐るべき15歳のライダーだ。ジェイソンいわく、「2年もすればプロだ。」と太鼓判を押していた。
 毎日、乗れなくてクサっていた僕だけど、真剣に取り組むライダーたちとこうして毎日話せるだけで刺激になった。ジェイソンに、「なんでカナダはこんなにレベルが高いの?」と聞くと、「最初、俺とジェイミーしかいなかったけど、うまくなりたいやつがみんなここバンクーバに集まってくるようになって、今のシーンが出来上がった。お互い刺激し合えるのが大きいかな。」といっていた。うまいライダーが集まって、常に一緒に練習できる環境ができると、刺激し合ってレベルが上がり、全体の求心力となって行く。ライダーの絶対数的は、日本のほうが数百倍恵まれているのだから、ちょっと火がつけばすごいことになるだろう。
 カナダ滞在の最後の2日間は、コーリーの家に泊まった。バンクーバダウンタウンの西はずれに位置する、結構ヤバメの地域にあるアパートにコーリーは住んでいた。スカイトレインというモノレールの駅が近くにあるのだが、その周りには、マリファナの売人とかが昼間からウロウロしているSketchy(怪しげな)なところだ。コーリーのルームメイトはクスリをやっているらしく、なんか俺たちがきたからどーたらこーたら、とテメーのことは棚に上げてなんか文句を垂れてた。とにかく環境は良くない。
 昼に、コーリーと陽介の練習について行ったのだが、僕と陽介は言葉を失った。
 治安が悪い、とかそういうことではない。コーリーがいつも1人で練習しているというその場所は、小さなスケートパークの中の、地面はコンクリートで舗装されているものの、相撲の土俵と同じ形、同じ大きさなのだ。
 僕のようなスピンで、場所を取らないスタイルならまだしも、いつものコーリーのおもいっきり広くスペースをとるライディングからは、全く想像の出来ない場所だった。
 陽介も最初は戸惑ったが、円形をうまく生かせるようになってくると、普段と変わらないライディングを見せてくれた。コーリーは慣れているだけあって、なんら普段と変わらないライディングで、スイッチだけでなく、グライド系のトリックもバシバシ決めていた。よく乗る環境について文句をいっていた僕だが、これを見て恥ずかしくなった。
 2日間コーリーと過ごすと、ジェイソンのいうとおり、確かにコーリーは、真剣にフラットのことを考えているライダーだった。少し排他的な意見が気になったのと、将来のビジョンという面ではジェイソンほどしっかりしていなかったけど、なにより思いやりのあるいいやつだ。コーリーも僕らに興味を持ってくれたみたいで、「俺はまだカナダから出たことがないけれど、日本は機会があったら行ってみたいな。」といっていた。
 そしてカナダを発つ日がきた。
 バンクーバからは、大会前にアキラと合流するために、シアトルの小杉さんの家に行くことにしていた。
 コーリーの家からスカイトレインの駅まで5分。スカイトレインでアムトラックのバンクーバ駅まで10分。余裕をみて、出発の1時間前にコーリーの家を出た僕らだったが、スカイトレイン入り口で、係員に止められた。
「自転車の乗り入れは出来ない」
 ソイツに噛み付く前に、陽介と僕は、顔を見合わせると同時に口走った。
「またかよ。」
 久しく忘れていたトラブルが、ここへきて顔をだした。見送りについてきてくれていたコーリーと、駅員が問答している間にも時間は過ぎて行く。時計を見ると、出発まで40分。電車はあきらめて、コーリーにタクシーを呼んでもらおうとしたが、こういうときに限って、カナダのコギャルが、「ってゆーかー」と1つしかない公衆電話で長話。
 なんとかタクシーは呼んだ。ところが今度は15分前になってもタクシーが来ない。駅までは車で10分弱。さすがの陽介が慌てはじめた。僕もこりゃヤバイ、と思い、目の前を通ったタクシーを無理やり捕まえて、アムトラックの駅に駆け込んだのが出発の1分前。座席に座るやいなや、列車が動き出した。冷や汗が出た。
 カナダでの生活は、僕の人生のある意味、ターニングポイントになった。
 自転車に乗れなかった僕を、ジェイソンは、あまり「ライダー」としては見ていなかっただろうし、僕自身も、「ライダー」、というより「普通の人」の目でジェイソンを見れた気がする。四六時中、ジェイソンといることで、その感覚が僕の中に染み込んで、同じような感覚で、他のみんなとも付き合えたことが最大の収穫だった。結局、「ライダー」としてより、「人間」としてどうかが大切だ、ということを今更ながら感じた。
 バンクーバからシアトルまで揺られること4時間。シアトル駅でアキラと小杉さんに再会した。久しぶりの再会に、陽介とアキラは盛り上がって、夜遅くだというのに、「自走で帰りますから。」と、小杉さんの家から車で10分くらいのところにある、ワシントン湖のほとりで二人でジャムセッションを繰り広げていた。
 週末になって、小杉さんの家でパーティがあった。そこで、キーコさんが生でライディングを見たいというので、アメ車2台が軽く入るくらいの大きさの、小杉さん家のガレージで、陽介とアキラがライディングを見せることになった。狭いスペースをものともせず、計算し尽くした動きで普段と変わらない技を決めつづける2人。そんな熱いセッションに、パーティにきていた人は、最初は大喚声をあげていたが、そのうち口をあんぐり。見慣れている僕ですら、ただただ魅せられてしまった。アキラと陽介のすごさを改めて見せつけられた。

5 ジャッジという名の壁

 8月26日、B3ポートランド大会前日、レジストレーションと原君の応援のため、陽介とアキラは、拾いにきたカナディアンライダーたちと共に、小杉さん家を発っていった。僕と小杉さんはその2日後に、3時間半のドライブの末、ポートランドに到着した。聞くところによると僕が到着する前日、ネイサンやジェイソンらのカナディアンライダーたちと陽介、アキラは大パーティを開いたらしく、その日はみんな結構ぐったりしていた。
 でも、ホテルが同じ場所に固まっていたので、そんなことお構いなしに、ネイサンの部屋に遊びに行ったり、ジェイソンの部屋、小杉さんの部屋と巡ったりして、久々の修学旅行気分を味わった。
 8月28日、大会会場に入るのにリストバンドが必要なのだが、大会に出られない僕は、アキラについてきてもらって、アスリートの友達、というのでリストバンドを取りに行った。すると僕に向かって、ホフマンの役員の人いわく、
「ドラゴンフライのマネージャー?」
オイラってそんなに老けてんのかな...
 大会初日に行なわれたアマチュア フラットランドでは、原君は3位をゲット。高志の話では、「何でプロに上がらないのか?」と、しきりにみんなに聞かれていたらしい。
 しかし、みんなが雪辱を期して臨んだプロ予選は、ジャッジの”えこひいき”か、としか思えないメチャクチャな結果に終わった。日本人ライダーに限らず、誰もが首をかしげる結果に、憤りを通り越してあきれかえった。
 どうヒイキしても高志は、決勝進出を確信させる、鋭く、かつ安定したライディングを見せたが、惜しかった、とすらいえない順位がついていた。でもオーシャンサイドのときとは違って、だし切ったという顔をしていたので、結構サバサバしていたのが救いだった。
 攻めあぐねた陽介は、その鬱憤がオリのように心に溜まっているようだった。
 アキラは、予選は少しまとまりを欠き、予選落ち。世界のトップライダーの注目を集め、感嘆させるだけの実力を持つアキラの結果は、立ちはだかる壁の大きさを、改めて思い知らされた気がした。
 大会後、フラットランドのプロライダーで、再びミーティングが持たれた。だが、根本的な問題であるはずの、ジャッジについては何も話し合われず、どうテレビの枠を多く獲得するかという論議のみに時間が割かれていた。金に媚びている、といえばそれまでだが、近年、BMXが盛り上がる中、フラットランドだけは賞金額も少なく、テレビも、バート、ストリートが1時間、たっぷり放映されるのに対し、フラットはいいとこ10分。
 去年まで、ただ文句をいうだけだったライダーたちも、このような話し合いを持つまでに結束するようになったが、賞金がバートとかと等しくなった以外、その進歩も反映されていない。そんなライダーたちの苦悩を代弁するように、スティーブ スウォープが口を開いた。
「文句は俺が引き受ける。とにかく腹を割って話し合おう。」
 最初にスコット パウエルが口火を切り、エキサイティングに映像を作りたいなら、最初からハイライトフィルムを想定して撮影すればいい、という意見からミーティングは始まった。終始、その流れで話は進み、最後にジェイ ミロンが、
「1人が長く乗ってしまうと、テレビ側の編集も難しく、アンドリューの持つようなエキサイティングなトリックを短く、ハイライトフィルムのようにして見せるほうが魅力的だ」という意見を述べて、フォーマットのアドバイザーとして、シカゴからきていたポール オシッカがそれを押す格好になって決まった。
 結果は、20秒、1コンボのみのライディングを5回3セットに分けてやるという、前代未聞のフォーマット。
 場は騒然。しかしスコット パウエル、ブライアン ターニー、スティーブ スウォープの3人が、このシーズンオフの間、意見を受け付けることで、泥沼化しそうな話し合いを、その場は強引にまとめた。
 こうした試みのため、フォーマットが、たとえ大会中であっても頻繁に変更され、今年は、多くのライダーが、あるときはトップ5、次の大会でビリから5番、というように浮き沈みの激しいリザルトを残している。
 今年はESPNが、視聴率を取れないなら、フラットランドの放映を打ち切る、くらいの圧力をかけてきているらしく、それがさらに混迷を深くした。
 それを破るには、まず、オーガナイザーは世界中からジャッジを募るべきだ。それにくわえて、僕は逆に、年間4戦、全部違うフォーマットでやるのも面白いと思う。新しいライダーが、決勝に食い込み易くなるだろうし、視聴者も色んなライダーを見れる。
 それによって、視聴者の目も肥えてきて、アメリカは、流行に左右されにくく、好きなやつはとことん好きになるみたいだし、フラットランド人気の拡大に繋がるのではないだろうか。
 大会後、僕はポートランドから再びカリフォルニアのハンチントンビーチへ、陽介は2hipの最終戦にどうしても出たい、でも金がないから小杉さんに借りるというので、小杉さんについて行き、高志、原君、アキラはまたカナダへと、それぞれ散って行った。

6 Who’s back in Town?

 ポートランドから2時間のフライトでLAX(ロサンゼルス国際空港)に到着。シャトルバスでハンチントンビーチのユースへ。1年前と変わらない姿で僕を迎えてくれた。
 入り口に入っていくと、見覚えがある背中に「Who’s back in town?(誰が町に戻ってきた?)」の文字が入ったTシャツ。去年、オーストラリア訛りが強くて、全然英語が分からなくて苦労させられたニールさんが、まだホステルにいる!
「Good day mate!」
 懐かしいオージー(オーストラリア人)のあいさつに迎えられ、僕はホステルに帰ってきた。僕の英語も少し上達したのか、1年前より全然いっていることが聞き取れるようになった自分に驚いた。
 もう一人、去年、大学に行っていて、「アパートを探すのに一時的に泊まる」といっていた根岸さんが、今もまだ、ホステルのスタッフとして働いていた。今はサーフィンにはまっているらしい。
 早速チェックインすると新しいルームメイトはマークとメルというオージーのカップル。人のいい2人で、2カ月の滞在中、僕の英語の師匠になっただけでなく、ホステルで1番仲のいい友達になった。
 最初の2週間は、”ストーム”の原稿書きで忙殺されて、他のホステルのやつらと友達となる機会がつかめなかった。それが終わってから学校に行ってみたりしたけれど、学校のやつらはマジメで面白くない。授業はもっと面白くない。日本で予定していった、学校に通う計画はすぐにつまずいて、日がな一日ホステルでプラプラする、のっけから怠惰な生活をおくることになった。
 今年のホステルは、日本人の長期滞在者が多かった。でも、みんながみんな、それぞれの道を持っているやつらばかりだったので、すごく刺激になった。サーフィンで、もう6年も世界中を旅している人、アメリカの大学に行っているけど、金がないからアメリカの銀行から借りて、自身も日本料理屋で働いて、夜、学校に行っている人、離婚して音楽を目指すために単身アメリカに渡ってきた人。
 みんなガケっぷちで戦っているから、腰が痛てーなんていってるだけじゃだめだ、と僕もホステルで、英語を頑張った。
 ジェイソンのところでかなり鍛えられていたと思っていた僕は、自信満々だったけど、オージー、キウイ(ニュージーランド)、ポーミー(イギリス)の発音の違いに叩きのめされた。発音に慣れてきても、動詞よりも、形容詞が分からない。
 そんな中、滞在中にたくさんの日本人がきたけど、単語なんて僕の何倍も知っているのにしゃべれない人が多いのを見て、持っている単語をフルに使えるほうが強いんじゃないか、と作戦変更。簡単な単語でしゃべれる方法を、会話に詰まるたびにたずねた。
 知っている言葉でも、実は違う意味だったり、新しい使い方を覚えたりして、だんだん英語と日本語の溝が狭まってきて、今まで日本語モード、英語モードと切り替えないといけなかったのが、意識しないでも切り替えられるようになった。
 詰まっても即座に英語で質問できるようになると、最初にひっ掛かった形容詞の問題も解決しはじめた。3、4人でしゃべるのにはついて行けるようになって、10人くらい集まってしゃべってるときに、分からなくても混ざって話を聞いていたりしたのだけれど、それだけは最後まで克服できなかった。どこに、誰に、話が飛んでいるのかほとんど分からない。
 うまく行ったことばかりでもなかった。英語がうまくなるにつれ、みんなも手加減をしなくなってくる。それで、言葉の大失敗を2つした。
 1つは、男の友達に、ふざけて「Fagot(オカマ野郎)」といってしまったこと。去年も使っていたけれど、全然しゃべれてなかったから、誰も気にしていなかったのだと思う。すぐ他の友達が、「それはヤバい。」と教えてくれて、謝ったから事なきを得たけど、Fagotはシリアスな言葉で、ふざけていうなら、Queenというのだそうだ。
 もう一つは、例の日本語を教えていた女の子にChoby(チョビィ、スペルは正確には知らない。)といってしまったこと。これは贅肉、という意味なのだが、ホステルで、みんなふざけてChoby、Chobyと使っていたので、そんなに深刻な言葉とは思っていなかったが、よくよく日本語で考えても、女の子に使うのはヤバイでしょう、と後になって後悔した。その子にもすぐ謝って、許してくれたからよかったようなものの。
 1カ月くらいそういった生活をしているうちに、足に痺れを感じるようになってきた。カイロプラクティクに行ってみると、椎間板ヘルニアであることが発覚。これで自転車に、ただ乗ることも出来なくなってしまった。それでもチャリンコに乗れない分のエネルギーを、別に生かした。
 日本人の友達と、アメリカ人相手に英語で車を買う交渉をしたり、アメリカ人の女の子(!)に日本語を教えたり、その彼女に依頼されて、日本の音楽雑誌に投稿したいという英語のインタビューを、日本語に翻訳したり。
 夜も、去年は9時になるとグーグー寝てたのに、エネルギーが余って、今年はもう全開。ルームメイトで、エレキギターをやるためにアメリカにきていたタカさんが、暇なときに、ホステルでも、楽器ができるやつとセッションしていたのだが、始まる、となると、狭い部屋にみんな押すな押すなで入ってきて、タカさんと、ブルースハープや、他のエレキギターとの即興演奏に、みんな大興奮。音楽は偉大だ。
 そんなある日、英語の師匠のマークとメルが、彼らの乗っているフォードのでかいバンの買い手を探していて、日本人の弁護士が名乗りを上げたらしいのだけれど、コミュニケーションがうまく取れないというので、僕が通訳することになった。
 普通、アメリカでは、車を個人売買するときは、表示価格はあくまでも表示価格、値段はO.B.O(or best offer、交渉次第)というのが常識なのだが、その弁護士は、マークの言い値、$4000で車を買った。マークは「半年前に$4000で買ったから$4000っていったけど、まさかそのまま売れるとは思わなかった」とホクホクで、手伝ってくれたからと、スシバーで御馳走してくれた。
 そこではじめてアメリカンスタイルの鮨を食べたのだが、1つは聞いたことがある人も多いだろう、カリフォルニアロール。(アボガドと野菜の巻き鮨)もうひとつ、旨かったのがクランチロール。(カニとアボガドが入った巻き鮨をテンプラっぽく揚げてある。)他にジャパメックスという真砂と明太子の手巻き鮨も高かったけど旨かった。こういったアメリカンスタイルの鮨も十分日本でウケるんじゃないだろうか。でも日本にはないのかな?
 他にハマッた料理は、メキシカンのナチョス。チリビーンズとメキシカントマト、ほかにお好みの野菜、ひき肉をグツグツ煮込んで、豆の形が崩れたくらいでチェダーチーズ(山吹色のチーズ。)とサワークリームを上に乗せて出来上がり。それをタコチップやトティーラ(トウモロコシや、小麦粉で作ったクレープの皮みたいなパン。トティーラで巻くとブリトーという。)と一緒に食べると、うーんっ。最高。1週間に1回は自分で作って食べていた。自分で作れるようになると、タコベルとかのナチョスなんて目じゃない!2カ月のカリフォルニア生活で、すっかりナチョス評論家と化してしまった。
 プールバーにも最後の1週間はハマッて、ビリヤードも経験できた。けがの功名で、今年は、去年は味わえなかった、本当のアメリカンライフを、ここカリフォルニアで満喫できた。
 そうこうしているうちに、去年より最後まで充実していたせいか、何げなく帰る日がきてしまった。みんな仕事を持っているにもかかわらず、朝早く、12、3人くらいの友達が起きてきて、見送ってくれた。シャトルバスから遠ざかるホステルとみんなを振り返りつつ、また、ここに帰ってくるぞ、と誓った。

7 さらなる飛躍をめざして

 去年の1人旅で、独りで異国に生きる自信を身につけた僕は、今回の旅では宇野陽介というパートナーを選び、幸運にも陽介の能力と僕の能力が共鳴して、2倍にも3倍にも増幅された。ジェイソンと仲良くなれたのも、小杉さんと知り会えて、アメリカの家庭での生活を経験できたのも、絶対1人で旅していたら経験できなかったハズだ。
 大会が終わった後のカリフォルニアの生活も、皮肉にも僕が自転車を乗れなくなってしまったことで、そのエネルギーというか、ストレスがすべて英語にぶつけられて、120%の効果を得られたのに違いない。今まで本当の意味で挫折を味わったことがなくて、今回はツケが一気に出た感じだった。それでも反動が良いほうに出たことで、燃え尽きれた3カ月間だった。
 頑張れた分、来年に向けての課題も山ほど見つかった。自転車も、陽介や高志、アキラと親交を深められたことで、乗るだけでなく、もっと広い意味で自分をプッシュすることもできるだろう。
 最後に、またこの旅行記を載せてくれたスキップさん、Dia-Techの小杉さん、ジョニーさん、キーコさん、矢島さん(ウチの社長)、陽介、アキラ、高志、原君、ジェィソン、ここに書き切れない人達、本当にありがとう!
 来年も、もっとスゴイ経験ができることを夢見て。Thank you guys! Saga is still going on!